銃撃直前の写真
1978年「ロシア(ソビエト連邦)の戦闘機に大韓航空機が撃墜されました」
私はこの大韓航空機に搭乗しており、「九死に一生」を得ました。
この写真は、私が撮影し、某新聞社の「報道写真年間グランプリ」を受賞しました。
この記事は、2020年9月10日に発表したものです。
概 略
皆さんは「大韓航空機事件」と言われて、どの事件を思い出すでしょうか。一番日本人にとって衝撃的なものは、「樺太沖で、その当時ソビエト連邦と呼ばれていたロシアの戦闘機によって大韓航空機が銃撃を受け、撃墜された事件」ではないでしょうか。この時には悲しい事ですが、すべての乗員・乗客が死亡するというものでした。しかし、それよりも前、今から40年以上も前に、同じような事件が、「ソ連とフィンランドの国境線」のところで発生しました。「私はその大韓航空機に乗り、九死に一生を得た人間」です。この出来事から、社会の人々、特に生徒のみなさんと教師の方々に「少しでも勇気を与えられるお話」ができればと願っています。
事件前
私は学生時代、「卒論」の研究のためイスラエルに行くことになりました。しかし、「イスラエル」という国をよくご存知の方でしたら理解していただけると思います。イスラエルは、今も、その当時も「血生臭い事件が絶えない国」です。
私が滞在した時も、テロによってバスが時限爆弾によって爆破されたり、学校が占拠されたり、血生臭い事件は日常茶飯事でした。そのため、私にはイスラエルで暮らす事は、「死と背中合わせに暮らす」ことのように思えました。
そのため、イスラエルで暮らすうちに、私にはある一つの覚悟ができていました。「私は危険を承知でこの地に来たはずである。もし命を落とすことがあっても、それは自業自得だ。しかし、同じ死ぬなら、価値ある死に方をしたい。」
価値ある死に方とは、
「もし、自分が死ぬ時に幼い子供が巻き込まれているなら、その命を救いたい。死ぬ際に見苦しいまねだけはしたくない。死に際だけは潔くありたい。」という意味です。
このような覚悟を持ってイスラエルで暮らしていましたので、私の毎日は充実したものとなりました。なぜなら、「明日、命を落とすかもしれないという気持ちが、今日という日を精一杯生きよう」という気持ちにさせてくれるからです。しかし、神様は「この覚悟が本物かどうか試してやろう」と私に試練を用意されていたようです。
しかも、私の予期していたイスラエルの地ではなく、思いもよらないところで「試練」は起きました。
事件発生
1978年4月20日、無事イスラエルでの研究を終え、ヨーロッパを独りで放浪した後、私はパリから大韓航空機に乗って、帰国の途に着きました。
飛行機に乗って数時間が過ぎました。私は左翼席に座っていたのですが、右翼席に「地平線にまさに身を沈めようとする太陽の美しさにつられ、カメラを持って右翼席に移動しました。
とその時、ミサイルを装備した戦闘機が私たちの乗っている大韓航空機に平行して飛んでいるのが分かりました。
私は咄嗟にカメラのシャッターを押しました。
戦闘機はなおも大韓航空機に接近してきました。誰の目でても、接近が「異常」であると理解された時、私は怖くなって自分の席に戻りました。
数分後、突然、戦闘機は機体を立てて、後ろに下がって行きました。私は不安な気持ちを紛らわそうと新聞を読んでいたのですが、
「その時です。」すぐ後ろで青白い光が走ったかと思うと、「ぱーん」という、鋭くて乾いた音がしました。
すると、私が持っていた新聞は「あっ」という間に燃えてなくなり、
私の頬を生ぬるい風がすり抜けたかと思うと、目の前を私の鮮血が飛んでいくのがわかりました。
私は「やられた」と思い、傷ついた頬を手で押さえながら後ろに振り替えると、あたり一面「血」の海でした。
すぐに硝煙の臭いが立ち込め、急降下が始まりました。
しかし、乗客である私たちには、「真っ暗な中、下へ落ちて行く機体、左翼を見ると、翼は爆発で先が無くなり、炎上しています。」
私たち乗客にはそれは、「墜落」でしかありませんでした。
機内の中
「あぁ、もうだめだ」という思いが脳裏をかすめました。
私は落ち着くために、大きな声で讃美歌を歌いました。「たとえ死の陰の谷を歩むとも、災いを恐れません。主が私とともにおられるからです。」聖書詩篇23編の歌詞です。
私は何度もこの歌を歌うことによって、冷静さを取り戻すことができました。
大韓航空機は3000メートル上空をなおも飛びつづけました。
その間に起こったことは、今でも私の脳裏から離れません。「あんちゃん、大丈夫か。」自分の両足の怪我も忘れて、出血多量で危篤状態の兄に叫び続ける日本人の方、「白いワイシャツがあっという間に血で真っ赤になった友を抱えながら嗚咽する韓国人の方、しかし、その友から、もはや何の返事もありませんでした。
私はハングルを全く知りませんでした。しかし、友人を抱きながら、腹の底から絞り出す「アイゴー」という鳴き声の言葉は、私の脳裏から離れることは一生ありません。
奇跡
大韓航空機は犠牲者を出しながらも旧ソ連領内に着陸しました。いくつかの偶然が重なって着陸に成功したのですが、それは奇跡でしかありませんでした。
奇跡の幾つかを紹介します。着陸後、軟禁され、取り調べを受けていました。その時、たまたま、私は、大韓航空機の機長と話しをする機会がありました。
以下は、機長からのお話です。「銃撃後も飛び続けていたのは、燃料を使い切るためでもあったが、至る所に「高圧電線」があったので、着陸が困難であった。
そこで、凍った湖の上に着陸することを決断した。しかし、4月になっていたので、氷の厚さがはたして、100トンの機体の重さに耐えられるのか、上空から判断できるはずもなく、一か八かのギャンブルでしかなかった。」さらに、機長のお話は続きます。
しかし、偶然にも、氷の厚さは百トンの機体の重たさに耐えるだけの厚さがありました。
さらに、機長は続けます。「着陸する時に、車輪が中途半端にしか出なかったことも、我々には幸運であった。
もし、正常に車輪が出ていれば、氷の上なので、停止できずに、どこかにぶつかり炎上していたでしょう。ぜんぜん車輪が出なければ、翼のエンジンが氷との摩擦で機体は爆発炎上していたかもしれない。
車輪が中途半端にしか出なかったことで胴体着陸がより楽にできた。
しかし、何よりも奇跡だと思うのは、戦闘機に銃撃を受けた時、私たちは3500フィート・1万3千メートル上空にいたが、爆発で機体に拳大の穴があいた。普通、このような高度で飛行している際にそのような穴が開けば、機内と外との気圧の差で空中分解しているはずだが、なぜ空中分解しなかったのか、私には分からない。」
この言葉だけでも、いかに私たちが助かったのが奇跡であるか理解していただけると思います。
メッセージ
さて、皆さんに今日伝えたいメッセージは、「人間にとって最も大切なことは、死という極限状態に追い込まれても、人間としての尊厳を失わないこと」です。人間は「死という極限状態に追い込まれると動物化して自分のことしか考えなくなるものです。
皆さんが私と同じ経験をすることはないかもとれません。しかし、もうすでに国際舞台で働いている人も、これから働こうという若者たちも、
「戦争・自然災害・感染病」など「死という極限状態に追い込まれる」ことは十分にあり得ることです。そんな時こそ、あなたの真の価値が問われる時なのです。逆境に置かれた時こそ、あなたの真価を発揮するときなのです。
そして、教育の目標は「このような事を成し遂げる力の人物育成」にあるべきだと私は思うのです。
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